1994年 創設期のストーリー
1993年、自由が丘駅から歩いて15分ほどの場所に褐色のレンガタイルの小さな建物を建てました。ジュエリー制作のアトリエとショップです。10人くらいが座れるだけの小さなカフェもつくりました。こだわりのフレンチローストのコーヒー、お菓子はキャロットケーキ、ランチはチキンのトマト煮、メニューはそれだけでした。アクセスが良い場所とは言えなかったですが毎日誰かしらファッション誌の編集者さんやスタイリストさんがジュエリーを見たりコーヒーを飲んだりと訪れて、ジュエリー好きが集まる場所になっていました。アトリエのメンバーは、ジュエリーのコンセプトやデザインを決めるアトリエ創設者Yunagiのもと、経験豊富な年配のジュエリーデザイナー、ジュエリーづくりの職人さん、ジュエリーのデザインにただならない情熱を抱いていた美大を卒業したての新人2名と総勢8人での出発でした。建設中であった恵比寿ガーデンヒルズと福岡三越への常設売り場の出店が決まっていたので、その準備に追われてみんなで夜遅くまで活気に満ちた仕事をし、毎晩数軒先の定食屋さんでデザインやジュエリーづくりについての話が尽きなかった熱い創設期でした。
ジュエリーへの飽くなき情熱
1990年代初めには、市場に礼装用の真珠製品以外にパールのデザイン商品はほとんど見ることがなかった時代でした。COUGUEのパールはデイリーな生活シーンのおしゃれにもどんどん取り入れてください、というコンセプトでデザインしたパールのアイテムは、時代の欲求に吸い込まれるように受け入れられていきました。
大阪梅田の阪急本店、日本橋三越本店、恵比寿三越、有楽町阪急(現在は閉店)、銀座のプランタン(現在は閉店)、福岡三越、福岡岩田屋、松山三越、横浜高島屋さん等々、COUGUEの常設売り場でパール製品を、1日80個、100個と売り上げていた時代が今は夢のように思い出されます。
その後、
あれから30年……長い年月が過ぎていきましたが、あの頃あったジュエリーに対する情熱や希望はいささかも衰えていません。30年前から心にはずっと「〝私たちのジュエリー〟にたどり着きたいんだ」という理想に向かっている心の叫びがあったと思います。
試練
この30年の間には、2008年にリーマンショックがあり、2011年に東日本大震災があり、2020年にコロナ感染が起こり、世の中が、ジュエリーなんか作ったり販売している場合じゃない、これほどの非常時にジュエリーを売る人も買う人も不謹慎である、、という空気に変わってしまうという辛い試練に見舞われました。そんないくつかの山や谷に翻弄され、時に叩きのめされながら、ジュエリーを作り続ける気持ちだけを持ち続けました。
自由が丘新ショップと海外拠点(2001年~)
21世紀が訪れた2001年に自由が丘駅から歩いて4分ほどの所に少し広いショップとアトリエを建てて引っ越し、香港、バンコクに製造拠点も得て、ダイヤモンドや貴石のファインジュエリーにも力を入れました。そこから急激にオーダーのお客様が増え、近隣の富裕層のお客様、デパートの売り場でリピーターになっていただいた近県や関西、北海道の方、また、ご紹介で、主に丸の内や霞が関でお仕事をされている30~40代の多くのキャリア女性の方などを顧客として、ジュエリーのフルオーダー製作に比重が高まっていきました。年に5回以上訪れる香港・バンコクでは、国際的な超大手ジュエリーメーカーから製造のバックアップを得て、日本国内では見る機会の少ない数千万~数億円という大きなダイヤモンドや数々の貴石の製造の現場を子細に体験することで知見を深めることになりました。
新ブランドLakeishaの誕生 (2024年~)
人生にも仕事にも、予期していなかったことが何かのきっかけで急に降りかかってくる、ということがあるものです。2024年、ふとした瞬間に新しいジュエリーラインをつくろうという思いが湧き、それに没頭している今があります。Lakeishaのジュエリーは、今よく売れそうなもの・・利益を出したいから・・を狙って作るというマーケティング先行の商売ベースのものではありません。志向しているのは、これまで30年間の経験やジュエリーに対する思いや願いを注いで、これならば、着けられた方が鏡の中に昨日までとは違う新しい表情の自分、美しい自分を発見することになるだろう・・という魂の宿った本物志向のジュエリーです。20年でも30年でも飽きずにつけ続けられ、やがて次世代にも受け継いでいくことになるようなジュエリーを生み出せたら・・それが私たちの夢です。